ラベル 考察 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 考察 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2014年2月1日土曜日

「ひまわり」について (フィボナッチ数列)




以前、富良野でひまわり畑を描いた事があり、ひまわりの種の並びに関心を抱いていた。
以前の「フラクタル」などでもあったように、自然や個々の植物を見ていると幾何学的であったり、何かの法則の基に構成されているに違いないと思えるものがある。

「ひまわり」はその内側の種の配列模様に何か法則があるのではと思っていた。

それは「そうなるべくして」そのような形になったのであり、偶然ではなく必然的に出来上がったものなので、そのタネを明かされると驚き嬉しくなってしまう。


今までNHK教育テレビなどは殆ど見ていなかったのだが子どもがいると見る機会がある。
先日、偶然見てなるほどと思った映像。






内側から外側へ向かって一番密に効率良く並べる形を、ひまわりは長年かけ身をもって作り上げてきたのだろう。そしてその角度が「フィボナッチ数列」から出される「黄金比」の角度であると言う事だった。

古来より人が「美しい」と思ってきた比率が、自然の仕組みと繋がっている事、さらに数式で説明されることは驚きである。
ひまわりがこの「黄金比」を知っていて種を配列したのでないのと同じく、モナリザの顔の比率などは作者の美の感覚的なものからその様になっていったのではないかと自分は思う。
絵画には意図するところと意図しない所の要素があらゆる場所に含まれている。
絵を数学的幾何学模様のみで描いてしまうと、そこには「固さ」しか感じられなくなる。人の手による「不完全さ」も必要な要素なる。(2008年5月の記事に同じ事を書いていたが、「人の手でコントロールすること」と言う記述は今では少し異なると考えている。)



映画の「ひまわり」やフィボナッチ数列の「ひまわり」、今回ものに限らず他の様々な経験は自分の中に溜められて表現につながっていると思っている。すぐには応用できないが。

2013年2月16日土曜日

「夜の絵」と「昼の絵」




絵を始めるきっかけになった中学時代の担任の美術の先生が、以前絵を始た頃、「夜に絵を描くと夜の絵になるから・」と言っていたのが頭に残っている。その時は「夜の絵?」と思いアンリ・ルソーか何かの絵柄が頭に浮かんだ位であまり分からなかった。以降それについて注意を払うようになってから何となくその意味が分かってきた。
夜は周りの騒音や雑用が無いので集中がしやすい。眠気から解放されると気持ちが盛り上がりやすくなって、作られた作品は濃厚、濃密になる。「作品」と言ったのは、絵だけに限らないからだと思うから。恋文などは夜に書いてはいけないとよく言われる。朝見ると読めた物ではないらしい。書いたことは無いけれど。
井上義彦の「バカボンド」を読んだ時、これはたぶん夜に描かれているのではないのかな、と感じた。後半など特に世界観が濃密になっていた。

表現によっては夜に書いた方がいいものもある。自分の表現しようとしている絵の世界観は「昼間より」の物だと思っているので、出来るだけ日中に描こうとしている。個展前などではそうもいかず夜中まで描くこともある。そうするとつい筆を入れすぎて「濃密」になり雰囲気が変わってくる。

アンリ・ルソーの作品は夜描いたのだろうか昼描いたのだろうか。
彼が生きていた時代はまだ夜の照明が発達していなかったから絵は日中描いていたのだろう。

2013年1月6日日曜日

光について

「もっと光を」と、色彩論を書いたゲーテは亡くなる間際に言ったらしいが、暗く色彩のない部屋で最期をむかえるのは厭だったのだろうか。
冬至前後は屋外と共に室内が暗くなるのも早くなってくる。もっと光が欲しくなる。日中、外では十分な光で描けているのだが、室内で加筆修正したり、外で作った絵から大きな作品を作ろうとするとその時の明るさと光の色の違いに違和感を感じ悩まされる。

理科の話。光の「スペクトル分布(引用:http://i-zukan.net/より)」は屋外の太陽光(または空の光)と室内の普通の蛍光灯では大きく違っている。下の分布図では、太陽光と蛍光灯のそれぞれの波長での色の強さが分かる。太陽光はすべての色(波長)で連続して強くあるのに対して、蛍光灯は偏った特定の色域だけを強く持っている。

家庭用の蛍光灯では、ある特定の範囲の色は良く見える。
太陽光の色の移り変わりが平均的なのに対して、蛍光灯ではよく見える色とあまり見えない(見分けられない)色が出てくる。
照らす光は絵の画面に対して、各色をうつし出すもので、蛍光灯の光では絵の赤や黄色から緑の間の色、緑から青の色の違いがはっきり見えなくなってしまう。風景画では青や緑の使い分けが重要なので、それが見えず分からないまま描くのは、まるで鼻をつまんで食事しているような感じになってしまう。外からの自然な光のない夜に蛍光灯などの下で風景画を日中と同条件の見え方で描くのは、色の使い分けに関して至難の業なのである。
太陽光の下では見えていた黄緑~緑の微妙な違いが蛍光灯だと同じに見えてしまう。そうやって出来た絵は色の表現の幅が狭くなってしまうのである。
しかし屋内で描かなければいけない事も多くあるので、各色を出来るだけ見れる光源にしようと、今は高演色性の蛍光管を使っている。太陽の光とまではいかないが各波長の色をまんべんなく持っている。下はスペクトル分布図。
一般の蛍光灯のスペクトル分布


高演色蛍光灯のスペクトル分布


太陽光のスペクトル分布(一例)



「夜一生懸命描いて、朝、外の光に照らされて見たら全く大した事のない絵に見えて落ち込んだ。」と言った事はよくある話だけれど、夜の照明と太陽の光の演色性の違いも一つの理由になると思う。

しかし、絵を鑑賞するのは普通屋内なので、窓から自然光(直射日光でない)が当たるような場所に飾ってあったり、照明の整った美術館でない限り、鑑賞者が本当の色の豊かさを普段感じることは余りないかも知れない。

良い絵の条件は色だけではない、とも言う事になる。

2011年1月17日月曜日

個展に向けて

最近は晴れていても寒い。一ヶ月を過ぎた自分の息子も、防寒のため服やら毛布やらでぐるぐる巻きにされている。
最近は笑うようになった。


次の個展は東北地方、仙台。それに向けて作品をあと数点仕上げようとしている所。
室内での製作の場合は、以前描いた小さいサイズの絵を元に大きくし、構図や配置、色などを変えつつ作っていく。一度訪れて描いた事のある場所は、その場の雰囲気や周りの景色まで覚えているので描いていてもそのときの記憶が戻ってくる。
写真も参考にしているが、大切なのは写真の色や細部の描写を克明に移してしまわないこと。
そうなると、絵は「硬く」なって持っている元の雰囲気が失われてしまうことが多い。この理屈については長い話になる。ある写真家の記事にもそれに関する説明があった。(サイト:市村勲の写真論と世界の写真家)

下は元の絵と、これから仕上げていく作品。完成作は次の個展にて。

2010年7月6日火曜日

正確に描く事と早く描く事

 
イタリアでの授業でインストラクターMarc Dalessioがそのことについて口にしていた。
一見正反対に思えるが、実際は正確に描けなければ時間が多くかかってしまい、自分の手が頭で描いているイメージに一致したものを描ければ、早くなる。
なので、現在や昔の作家でも上手な画家ほど、良い作品を驚くほどの早さで描き上げる人が多い。早く雑に描くのは簡単だけれど、早いのに丁寧に描くのはことのほか難しい。経験と技術を磨いて出来るものなのだと思う。
ただ早く描くこと自体に良さがあると言えないが、時間がかかったから良いということも簡単には言えない。
自分でも、何日もかけた作品が駄目で、現場で数時間かけて描いたものがより良かったりということがよくある。

2009年10月17日土曜日

木と幾何

 
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fd/Von_Koch_curve.gif


最近外で描くのも寒くなってきた。
屋外で風景画を描いていると、木の形や雲、山の縁など色々と外形(ふち)を観察することになる。そこで「フラクタル」という考えが度々出てくる。上の図は三辺の直線を折り上げた三角を作り、更に相似でそこにできた直線を折り上げて、繰り返し・・というもの。
数学の考えだけれど、自然には多く見られるもの。
例えばモミの木を見ると大雑把に見ればとがった三角形、すこし細かく見るとギザギザの集合から出来た三角形、更に近づいて見ればその枝のかたまりもギザギザの葉の集合・と繰り返している。
 


絵を描くときには何処まで描けば良いという答えは無いので、ある画家は最大の外形を捉えて描き、ある画家はその次まで描く。もっと描き進めていく人も居る。それぞれで良さは表現できる。
一見、一番大きな形を捉えて描くのは一番単純で楽そうだと思うけれど、これがまた難しく、そのものの形を筆の動きで表現する必要があるので、イメージで行くと書道に近い。動きのある絵は、全体としてのリズムも必要になる。
他方、細かさを突き進めれば、フラクタルのようにその先の先のサキ…となる。

絵には文学的な考えも、理科の要素もあるから奥が深い。
下の葛飾北斎の波もフラクタル。

2009年7月22日水曜日

現地で気になっていたこと

「バーントシエナ」や「ローシエナ」と言う茶色の絵具がある。直訳すると「焼いたシエナ土」、「生の(そのままの)シエナ土」。シエナで絵を描いていた 時、地面の土の色がこちら関東ロームのこげ茶色と違って、明るい黄土色の特徴的な色だなと思い、これで絵具を作ってみたらいい色になるかなと気になる。そ して甲子園球児のように土をかき集めて大切に持ち帰ってきた。
家で砕いて細かくし、油その他と混ぜ、練り合わせて自家製の「ローシエナ」が出来た。色はそれなりだが、砕きが足りなかったので粒の荒めの絵具になってしまった。絵具に砂を混ぜて描くと言う描き方があるが幾分そのような感じ。
滞在中に作った「日本に戻ったらやりたいこと、やることリスト」の一つが出来た。



2008年5月20日火曜日

オリーブの木

ある人が「この色を出せる画家は殆ど居ない」と言っていた程、なんとも言えない地中海式気候の土地の景色に溶け込んだ色。下手に混色して描いても不自然な感じになってしまう。上手く行ったかは分からないが自分も風景で何度か描いたことがある。
今日は風が強い。遠くの木々が風にあおられて葉がみんな裏をむいた瞬間、色がオリーブの木になった。つまり他の木でも裏向きの葉の光の集まりを遠くから見ればオリーブに近いような色に見えるということ。実際の木も近づいて見るとやはり葉がすべて裏向きになって生えている。


話は変わって、7月中イタリアに行くこととした。フィレンツェにある絵画学校でサマースクールを取る為。旅行ではないので日々地味で大変なことが多いのは毎回のことだが、異文化同士の刺激を受け日本で小じんまりまとまろうとする感覚を修正したい。

オリーブの木ももう一度描こうと思う。

2008年5月8日木曜日

写実と細密さ

今度モデル撮影の場所を近くのカフェTOUMAIに提供してもらうため話をしに行った。以前も書いた雰囲気のあるお店。ネコが多い。オーナーの人の本を読むと面白い。世界各地を飛び回っている。

人 物画がほぼ仕上がった。写真は手の部分。自分は「細かさ」より色の表現とその印象を大事にしていきたいと思っている。時間をかけて描けば描くほど終わりが 無く詰まっていく。高畑勲監督が著書「映画を作りながら考えたこと」の中で「細部まで書き込んだ結果魅力を失ってしまうことがある。ラフにかかれたものが非 常に生き生きとしていることがあり、線一本(アニメーション)でかかれたものより人の想像力は働く。」と言っていた。
これに似たことも教わったことがある。絵でも画面全体全て描き込まれていると見る人の入り込む余地が無くなってしまう。今はまだできていないけれど、絵画にできることは自分の手でそれをコントロールして表現することだと思う。

写真から描いた作品は、写真を撮った時点でその作品はほぼ完成している。また、写真にはカメラメーカがレンズが捉えた光からの映像表現に手を加えているので、カメラメーカーのエンジニアとの合作と言えるのかもしれない。
実物の情報量は時間を含め写真とは比べ物にならず、五感を総動員して対象を汲み取らなければ絵にできない。つまり描く景色・対象を目にしただけでは作品はまだ全く出来ていないことになる。

2008年5月5日月曜日

理科の話

前回関係ないとは言ったが、ゴールデンウィークなのに曇りや雨が多い。自然光で絵を描く時、曇りと晴れでは光の量が全然違う。
人の目はカメラのかなり性能のいい高いレンズと同じ位らしい。曇っていても晴れていても物の色や明るさを常に良い具合に調節して映している。
目 の性能で言ったら鳥はかなりいいと思う。視力は人の数倍あるし、色を見分ける能力は相当ある。だからオスはきれいな色彩でいるのだと思う。しかし、鳥目と 言うように鳥は暗いところを見る能力は弱い。ネコは色があんまり見えていないが、かなり暗いところでも見ることができると聞いたことがある。
あと は昆虫。ハチの実験なんかでもよくやっているが、ハチは花の蜜をとるために色を見れる範囲が人間より広いらしい。人は紫より外は黒にしか見えないが、ハチ は紫外線の範囲まで見れる。だから普段自分たちが見ている紫一色のパンジーとかもハチにはもっと違った模様で見えているらしい。
と言うことで、いろんな生き物の目の能力があったらどういった絵が描けるだろうかと考えたりする。